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極東ソビエト軍総司令官

極東ソビエト軍総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキーソ連邦元帥

モンゴル人民革命軍総司令官ホルローギーン・チョイバルサン元帥

第1極東戦線:司令官キリル・メレツコフソ連邦元帥
第35軍
第1軍:司令官アファナシー・ベロボロドフ大将
第5軍:司令官ニコライ・クルイロフ大将
第25軍:司令官チスチャコフ大将
第10機械化軍団
第9空挺軍
第2極東戦線:司令官M.プルカエフ上級大将
第2赤旗動章軍
第15軍
第16軍:司令官ア・ゲ・チエレミソフ少将
第10空挺軍
第5独立狙撃軍団
カムチャッカ設堡守備隊:司令官ア・エル・グネチコ少将
第10航空軍
アムール流域防空軍
ザバイカル戦線:司令官ロディオン・マリノフスキーソ連邦元帥
第17軍
第39軍
第36軍:司令官アレクサンドル・ルチンスキー
第53軍
第6親衛戦車軍:司令官アンドレイ・クラフチェンコ大将
第12空挺軍
騎兵・機械化群:司令官イッサ・プリーエフ。ソビエト・モンゴル合同部隊
太平洋艦隊:司令官イワン・ユマシェフ大将。巡洋艦×2隻、響導艦×1隻、駆逐艦・掃海艇×12隻、潜水艦×78隻。兵員11万人。航空機1,549機
アムール小艦隊:司令官N.アントノフ少将
兵員1,577,725人、火砲26,137門(迫撃砲含む)、戦車・自走砲5,556両、航空機3,446機を装備(海軍の装備を考慮しない数)。

日本軍

関東軍
関東軍の作戦構想とは、ソ連軍の主力部隊の来襲が予想される西方面で、逐次的な抗戦と段階的な後退行動によって敵部隊を消耗させつつ連京線以東の山岳地帯に誘導して、ここで敵主力を可能な限り叩き、最終的には通化・臨江を中心とする総複郭内に立て篭もる。また満州各地で広く遊撃戦を行い、できる限りソ連軍の戦力を破砕する。ただし一部の前進を阻止遅滞させるための玉砕的な戦闘も予想しうる。後退の際には適時交通要所や重要施設は破壊して、敵の行動を妨害する、というものだった。

戦術理論として一定の合理性を持つ作戦であったものの、当時の情勢と関東軍の準備状況などからは遊撃戦の展開や段階的な後退には非常に実行が困難な作戦であった。西正面のソ連軍の機甲部隊に対しては、第44軍(3個師団基幹)と第108師団を配備したに過ぎず、またこれらの部隊も火力・機動力ともに機甲部隊に対しては不足しており、実戦では各個撃破される危険性が高かった。また関東軍は戦力の差を縮めるためにゲリラ戦を重視していたが、これは現実的に難しく、困難であった。東部正面においては、元来工事の準備が遅れており、陣地防御もままならない状況であった。通信網でさえ第一線の部隊と司令部間であっても通じておらず、第一方面軍司令部と第五軍司令部の通信は8月14日になってからであった。

第五方面軍
第88師団(樺太)においては、対米戦に対応していた時期から、第88師団は樺太を真逢と久春内を結ぶ線で二分、それぞれで自活しつつ来攻する敵の殲滅にあたることとし、状況やむをえない場合に持久戦に移ることとし、同時に北海道との連絡維持を任務としていた。北部では八方山の陣地を軸とし、その西方山地や東方の軍道(東軍道または栗山道)沿いに北上、侵攻軍の翼に反撃、ツンドラ地帯内か西方山地に圧迫撃滅を図るものであり、南部では上陸阻止を第一としていた。

目標が対ソ戦に切り替わると、以北で小林大佐指揮下の歩兵第125連隊が八方山の複郭陣地などを活用し持久戦にあたり、南進阻止を企図するとした。以南の地域では東半部を歩兵第306連隊西半部に歩兵第25連隊をおき、師団主力は国境ソ連軍の邀撃にはあたらないとする旨が伝えられた。また、豊原地区司令部により、1945年3月25・26日には邦人7688名を地区特設警備隊要員として召集、教育しており、住民を利用したゲリラ戦をも想定していたともいえる。
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第91師団(北千島)においては、他の島嶼と同じく北千島においても水際直接配備が当初は主であったが、戦訓から持久戦による出血強要へと方針が転換された。しかし陣地構築の困難さから、砲兵については水際に重点が置かれた。極力水際で打撃を与えつつ、神出鬼没の奇襲で前進を遅滞させるという村上大隊の戦闘計画に掲げられた任務は、その好例といえよう。全体の布陣は二転三転したが、最終的には幌筵海峡重視の配備となっていた。防御に徹した教育訓練がなされたことや、徹底した自給自足により栄養不良患者をほとんど出さなかったのも特徴である。

戦闘序列
関東軍総司令官 山田乙三 大将(14期)

第一方面軍:司令官 喜多誠一 大将(19期)
第3軍
第5軍
直轄部隊
第三方面軍:司令官 後宮淳 大将(17期)
第30軍
第44軍
直轄部隊
第4軍
第34軍
関東軍航空部隊
戦闘飛行部隊
教育飛行部隊(独立第101教育飛行団)
陸軍士官学校満州派遣隊
兵員約70万(詳細な個別師団・部隊の兵員数は不明)、火砲約1,000門(歩兵砲・山砲などすべてを含む)、戦車約200両、航空機約350機(うち戦闘機は65機。練習機なども含む)

これ以外に、樺太では第88師団が、占守島では第91師団がそれぞれ第五方面軍の指揮下ソ連軍を迎えた。

居留民への措置
関東軍と居留民には密接な関連があり、関東軍は居留民の措置について作戦立案上検討している。交通連絡線・生産・補給などに大きく関東軍に貢献していた開拓団は、およそ132万人と考えられていた。開戦の危険性が高まり、関東軍では居留民を内地へ移動させることが検討されたが、輸送のための船舶を用意することは事実上不可能であり、朝鮮半島に移動させるとしても、いずれ米ソ両軍の上陸によって戦場となるであろう朝鮮半島に送っても仕方がないと考えられ、また輸送に必要な食料も目途が立たなかった。 それでも、関東軍総司令部兵站班長・山口敏寿中佐は、老幼婦女や開拓団を国境沿いの放棄地区から抵抗地区後方に引き上げさせることを総司令部第一課(作戦)に提議したが、第一課は居留民の引き上げにより関東軍の後退戦術がソ連側に暴露される可能性があり、引いてはソ連進攻の誘い水になる恐れがあるとして、「対ソ静謐保持」を理由に却下している。

また居留民、特に開拓団は悪化していく状況においてあくまで関東軍とともにいることを強く希望し、また満州開拓総局長斉藤中将は開拓団を後退させないと決めていた。加えて事態が深刻化してから東京の中央省庁から在満居留民に対して後退についての考えが示されることもなかった。関東軍の任務として在外邦人保護は重要な任務であったが、開拓総局と開拓団が軍隊の後退守勢を理解せず、一切の後退をよしとしなかった。この判断については、当時の多くの開拓団と開拓総局の人々が国外において軍事力の保護が消失した場合に起こる悲劇について未知であったことも大きな要因であると考えられる。

ソ連軍との戦闘が始まると直ちに、関東軍は居留民に対し避難処置を取るべく、10日9時40分に総参謀長統裁のもとに官民軍の関係者を集め、具体的な研究を開始した。同日18時に民・官・軍の順序で新京駅から列車を出すことを決定し、正午に官民の実行を要求した。しかし官民両方ともに14時になっても避難準備が行われることはなく、軍は1時間の無駄もできない状況を鑑みて、結局民・官・軍を順序とする避難の構想を破棄し、とにかく集まった順番で列車編成を組まざるを得なかった。第一列車が新京を出発したのは予定より大きく遅れた11日1時40分であり、その後総司令部は2時間毎の運行を予定し、対立鉄道司令部に対して食料補給などの避難措置に必要な対策を指示した。現場では混乱が続き、故障・渋滞・遅滞・事故が続発したために避難措置は非常に困難を極めた。

これらに加えて辺境における居留民については、第一線の部隊が保護に努めていたが、ソ連軍との戦闘が激しかったために救出の余力がなく、ほとんどの辺境の居留民は後退できなかった。特に最前線地域の居留民の多くは第一線部隊とともに最後をともにする事態が続出し、また「根こそぎ動員」によって戦闘力を完全に失っていた家族・村落・地域においては、侵攻してきたソ連軍兵士やかつて土地を奪われた周辺住民による暴行・略奪・虐殺(葛根廟事件など)が相次ぎ、ソ連軍の包囲を受けて集団自決した事例や、各地に僅かに生き残っていた国境警察隊員・鉄路警護隊員の玉砕が多く発生した。また第一線から逃れることができた居留民も飢餓・疾患・疲労で多くの人々が途上で生き別れ・脱落することとなり、残留孤児となる人々も出た。

当時満州国の首都新京だけでも約14万人の日本人市民が居留していたが、8月11日未明から正午までに18本の列車が新京を後にし3万8000人が脱出した。3万8000人の内訳は

軍人関係家族 2万0310人
大使館関係家族 750人
満鉄関係家族 1万6700人
民間人家族 240人
このとき、列車での軍人家族脱出組みの指揮を取ったのは関東軍総参謀長秦彦三郎夫人であり、またこの一行の中にいた関東軍総司令官山田乙三夫人と供の者はさらに平壌からは飛行機を使い8月18日には無事日本に帰り着いている。

当時新京在住で夫が官僚だった藤原ていによる「流れる星は生きている」では、避難の連絡は軍人と官僚のみに出され、藤原てい自身も避難連絡を近所の民間人には告げず、自分達官僚家族の仲間だけで駅に集結し汽車で脱出したと記述している。 また、辺境に近い北部の牡丹江に居留していたなかにし礼は、避難しようとする民間人が牡丹江駅に殺到する中、軍人とその家族は、民間人の裏をかいて駅から数キロはなれた地点から特別列車を編成し脱出したと証言している。

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2009年01月27日 09:36に投稿されたエントリーのページです。

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